享保の改革とは、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が、悪化していた幕府財政と政治体制の立て直しを目指して進めた一連の政策です。1716年の将軍就任後からおこなわれ、目安箱、上米の制、足高の制、定免法、公事方御定書など、財政・人事・司法・都市政策に及びました。
享保の改革は、寛政の改革・天保の改革とあわせて「江戸時代の三大改革」と呼ばれます。この記事では、享保の改革の目的や主な政策、成果と課題をわかりやすく解説します。あわせて、1716年の位置づけ、吉宗政権期の主な出来事、江戸時代の三大改革との違いも整理します。
享保の改革とは?目的や内容をわかりやすく解説
「享保(きょうほう)の改革」とは、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が進めた、江戸幕府の財政と政治体制を立て直すための改革です。
吉宗が将軍に就任した1716年ごろ、幕府は支出の増加や金銀産出量の減少などにより、厳しい財政状況にありました。そこで吉宗は質素倹約を掲げる一方、年貢収入の増加、新田開発、人材登用、司法制度や江戸の都市政策の整備などを進めます。
吉宗は紀州藩主時代にも藩政改革に取り組んでおり、その経験を幕政に生かしました。将軍在職期間は1716年から1745年までです。ただし、享保の改革は特定の年に一度だけ実施された政策ではなく、吉宗の在職中に段階的に進められた複数の政策の総称として理解しましょう。
享保の改革、語呂合わせの覚え方を紹介
江戸中期はさまざまな幕政改革がおこなわれており、ひとつずつ整理して覚えていく必要があります。
ここでは、1716年に徳川吉宗が8代将軍に就任し、その後に進められた「享保の改革」の年号の覚え方を紹介します。
吉宗政権期の主な出来事を年表で紹介
ここでは、吉宗が8代将軍に就いた享保元年以降の主な政策や出来事を年表で見ていきましょう。享保は21年まで続き、1736年に元文へ改元されました。
| 元号 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 享保元年 | 1716年 | 徳川吉宗が8代将軍に就任 |
| 享保2年 | 1717年 | - |
| 享保3年 | 1718年 | 町火消の組織化を命じる |
| 享保4年 | 1719年 | 相対済令を発令 |
| 享保5年 | 1720年 | いろは組47組と本所・深川16組からなる町火消を整備 キリスト教に関係しない漢訳洋書の輸入制限を緩和 |
| 享保6年 | 1721年 | 目安箱を設置 |
| 享保7年 | 1722年 | 上米の制を実施 小石川養生所を開設 定免法を広く採用 |
| 享保8年 | 1723年 | 足高の制を実施 |
| 享保9年 | 1724年 | 倹約を求める法令を発令 |
| 享保10年 | 1725年 | - |
| 享保11年 | 1726年 | - |
| 享保12年 | 1727年 | 公事方御定書の編纂が進められる |
| 享保13年 | 1728年 | 幕府領の年貢率引き上げを進める |
| 享保14年 | 1729年 | - |
| 享保15年 | 1730年 | 上米の制を廃止 |
| 享保16年 | 1731年 | - |
| 享保17年 | 1732年 | 享保の飢饉が発生 |
| 享保18年 | 1733年 | - |
| 享保19年 | 1734年 | - |
| 享保20年 | 1735年 | 中御門天皇が譲位 |
| 享保21年 | 1736年 | 元文へ改元 |
徳川吉宗が享保の改革でおこなった主な政策
享保の改革の大きな目的は、幕府財政の再建と政治体制の整備でした。幕府の収入は年貢米に大きく依存していたため、吉宗は年貢の徴収方法や米価の安定に力を入れ、「米将軍」とも呼ばれました。
一方で、改革は農政だけに限られません。庶民の意見を集める仕組み、人材登用、法令の整備、江戸の防火対策など、幅広い分野に及びました。ここからは、主な政策を見ていきましょう。
目安箱
「目安箱」とは、1721年に、庶民の意見や訴えを政治に取り入れるため、江戸城の評定所前に設置された投書箱です。投書には原則として住所と氏名を書く必要があり、吉宗が自ら内容を確認したとされます。
目安箱への投書をきっかけに実現した代表例が、1722年に開設された「小石川養生所」です。町医者の小川笙船が、生活に困る人々のための医療施設を提案し、幕府がこれを採用しました。
目安箱には政策提案だけでなく、幕政への批判も寄せられました。すべての意見が採用されたわけではありませんが、支配層以外の声を幕府が直接受け取る窓口として重要な意味を持ちました。
年貢率の見直し(五公五民)
「五公五民(ごこうこうみん)」とは、収穫の5割を年貢として領主へ納め、残り5割を農民の取り分とする割合を表した言葉です。吉宗は幕府領で年貢収入を増やすため、従来より高い年貢率を求めました。
ただし、江戸時代の年貢率は土地の生産力や地域、時期によって異なり、すべての農村で一律に五公五民が適用されたわけではありません。年貢の増徴は幕府収入の増加につながる一方、農民の負担を重くし、百姓一揆や逃散の一因にもなりました。
新田開発
年貢の増収を図るために、吉宗は五公五民のような増税策だけでなく新田の開発にも力を入れました。
それまでも新田開発はおこなわれていましたが、吉宗時代の新田開発は技術的にそれまでと大きく変わります。
伊奈流から紀州流へ
それまでの新田開発方法は伊奈流(関東流)と呼ばれるもので、必要となる農業用水を確保するために湖沼や溜池などのある場所を中心に開発がおこなわれました。
当時の水を堰き止める築堤技術や河川管理の方法では、河川の中流、下流域など水量の多い地域の開発ができなかったのです。
しかし、吉宗が藩主を務めていた紀州藩には高い土木技術がありました。吉宗は技師を紀州から呼び寄せ、中・下流域の肥沃な地帯を開発していきました。
この紀州の技術を使った新田開発を、紀州流と呼びます。
新田開発は耕地面積を広げ、将来的な年貢収入を増やすことを目的としていました。ただし、開発の成果は地域によって異なり、享保の改革による幕府財政の改善は、新田開発だけでなく年貢増徴や上米の制、倹約など複数の政策によるものです。
公事方御定書(くじかたおさだめがき)
享保の改革では、裁判や刑罰の基準も整備されました。1742年に成立した「公事方御定書」は、幕府の裁判実務で用いる法令や判例をまとめたものです。
上巻には司法・警察に関する法令などが収められ、下巻は刑事裁判の基準を示す「御定書百箇条」として知られます。一般に公開された法典ではなく、評定所など限られた役人が裁判の判断をそろえるために使用しました。
公事方御定書の成立により、担当者によって判断が大きく異なることを抑え、幕府の裁判基準を統一することが図られました。
もう一度社会に戻れる「更生」の思想
公事方御定書には、犯罪の種類や事情、再犯の有無などに応じた刑罰の基準が示されました。江戸時代の刑罰には厳しいものも多く、現代の刑法と同じ「更生」の考え方が制度化されていたと単純に捉えることはできません。
一方で、罪の内容に応じて刑罰を段階的に定め、一定の場合には過去の軽い犯罪を処罰対象から外す「旧悪」の仕組みもありました。先例を整理して刑罰の基準を明確にしようとした点が、公事方御定書の重要な特徴です。
足高の制(たしだかのせい)
「足高の制(たしだかのせい)」は、1723年(享保8年)に導入された人材登用のための制度です。
当時の江戸幕府では役職ごとに必要な家禄(給与の基準)が決まっており、家柄や家禄が低い武士は、どれほど優秀であっても重要な役職に就くことが難しい仕組みになっていました。
そこで吉宗は、家禄が低い武士を重要な役に抜擢した際、在職期間中に限って不足分の手当を補う(足す)仕組みを作りました。退職すれば補填はなくなるため、幕府の財政負担を抑えつつ、家柄にとらわれずに優秀な人材を登用できるようになりました。
この制度によって能力のある人材が積極的に抜擢されるようになり、のちに江戸町奉行として活躍する大岡忠相(おおおかただすけ)らの登用にもつながりました。
倹約令
華美な生活を戒める倹約令は江戸時代に何度も発せられていますが、享保の改革での「倹約令」は、歳出を厳しく抑える財政緊縮を目的としていました。
いつの時代も、財政を立て直すためには収入を増やして支出を抑えるしかありません。
吉宗は幕府の支出を抑えるため、大奥や役所の経費を見直し、武士や町人にも華美を避けるよう求めました。吉宗自身も質素な生活を心がけたと伝えられています。
ただし、倹約を徹底すると消費が落ち込み、商業活動を停滞させる側面もあります。倹約令は財政支出の削減に役立つ一方、経済全体への影響も伴う政策でした。
江戸町奉行
享保の改革では、幕府財政の安定以外にもさまざまな改革がおこなわれました。
人口が100万人に達したともいわれる江戸の町の行政改革や町づくりを担ったのが、江戸町奉行 大岡忠相(おおおかただすけ)でした。
町火消を組織
江戸町奉行大岡忠相の業績のひとつに、「町火消を組織したこと」があります。町火消とは、地域の町人による自主的な消防組織のこと。
また、火事の多かった江戸の町の防火対策として、瓦葺屋根や土蔵などの使用を奨励し、広小路(ひろこうじ)や火除地(ひよけち)をつくり、延焼防止を図りました。
広小路は、江戸をはじめ、大坂や京都などの主要都市でも防火のために設けられました。広小路という地名は現在も各地に残っており、享保期の防火政策に由来する場合があります。
人情に厚い大岡裁き
江戸の町の行政改革とともに、江戸町奉行はさまざまな町のトラブルに対して裁判所のような役割も担いました。
大岡忠相は町奉行として裁判も担当し、のちに公平で人情味のある判決を下した人物として「大岡裁き」の物語が広まりました。
ただし、現在知られる大岡裁きの多くは、後世の講談や歌舞伎などで形成された伝承です。史実として確認できる業績と物語上のエピソードは分けて理解しましょう。
定免法(じょうめんほう)
吉宗は享保7年(1722年)ごろから、幕府領の年貢徴収に「定免法」を広く採用しました。これは、過去数年間の平均収穫量を基準に、一定期間の年貢率を固定する方法です。
従来の検見法では、その年の収穫量を調べて年貢額を決めるため、調査に手間がかかり、役人の不正が入り込む余地もありました。定免法には徴収事務を簡素化し、幕府の収入を安定させる利点があります。
一方、凶作の年にも原則として同じ割合の年貢を求められるため、農民の負担が重くなることがありました。豊作時には増産分が農民の手元に残りやすいという側面もあり、天候や収穫状況によって影響が異なる制度です。
上米の制(あげまいのせい)
「上米の制」は、享保7年(1722年)に実施された制度です。幕府は財政再建のため、大名に石高1万石につき100石の米を納めさせました。
その代わりに参勤交代の江戸在府期間を1年から半年へ短縮し、大名の負担を軽減しました。幕府が大名から米を集めることで、短期的に収入を確保する政策です。
上米の制は幕府財政を支えましたが、大名からの上納に頼ることは幕府の権威にもかかわるため、長期的な制度とはなりませんでした。年貢収入が回復したことなどを背景に、1730年に廃止されています。
享保の改革は成功?失敗?改革の結果どうなったのか
享保の改革には、幕府財政の収入を増やし、政治や裁判の仕組みを整えたという成果がありました。年貢徴収の見直し、新田開発、上米の制、倹約などによって財政は一時的に改善し、目安箱や足高の制、公事方御定書は政治体制の整備につながりました。
一方、年貢の増徴や定免法は農民の負担を重くする場合があり、1732年の享保の飢饉の後には、翌1733年に江戸で米商人への打ちこわしを伴う米騒動が起こるなど、社会不安が高まりました。米の増産による米価下落は、米を収入源とする幕府や武士に新たな問題をもたらします。
そのため、享保の改革を単純に成功・失敗のどちらかで評価するのは適切ではありません。幕府政治を立て直して後の改革の手本となった一方、年貢に依存する財政構造そのものを解決するには至らなかったと整理するとよいでしょう。
【江戸時代の三大改革】享保・寛政・天保の改革を語呂合わせで整理しよう
江戸時代には、年貢米を基盤とする幕府・藩の財政と、都市や農村に広がる貨幣経済が並存していました。吉宗は年貢収入を増やす政策を進めましたが、米価と物価の変動への対応にも苦慮します。
その後も商品経済や貨幣経済は発展し、米中心の財政制度とのずれが大きくなりました。幕府は享保の改革後も財政と政治体制を見直す必要に迫られ、寛政の改革や天保の改革へと続いていきます。
そこで幕府は、享保の改革のほか、寛政の改革、天保の改革をおこないました。これらを「江戸時代の三大改革」といいます。
ここでは、そんな江戸時代の三大改革を簡単に覚えられる語呂合わせを紹介していきます!
改革名と中心人物をセットにした覚え方【語呂合わせ】
まず、江戸時代の三大改革とその中心人物を覚える語呂合わせを紹介します。
改革名と改革年をセットにした覚え方【語呂合わせ】
また、改革名と年度をセットにして覚える語呂合わせもあります。
三大改革は1700年代からはじまっていることを前提に、上記の語呂合わせで覚えてみてくださいね。
まとめ
享保の改革について、改革の目的や内容、年号などの語呂合わせを中心に紹介しました。
享保の改革では、徳川吉宗が財政再建だけでなく、人材登用、司法制度、都市政策など幅広い分野を見直しました。目安箱、上米の制、足高の制、定免法、公事方御定書は、それぞれ目的と影響を関連づけて覚えることが大切です。
改革によって幕府財政は一時的に改善しましたが、農民負担の増加や米中心の財政構造という課題も残りました。こうした成果と限界を踏まえると、後の寛政の改革・天保の改革につながる流れを理解しやすくなります。
享保の改革は、江戸時代の三大改革の最初に位置づけられる重要な改革として整理しておきましょう。