大政奉還とは、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷へ政権の返上を申し出た、幕末の重要な出来事です。1867年(慶応3年)10月14日に大政奉還の上表が提出され、翌15日に朝廷が受理しました。
ただし、大政奉還だけで幕府の仕組みや徳川家の政治的影響力がただちに消えたわけではありません。その後の王政復古や戊辰戦争を経て、新しい政治体制へ移行していきます。
この記事では、大政奉還の意味と内容をわかりやすく解説し、おこなわれた年、二条城が舞台となった理由、坂本龍馬との関係、その後の流れまで順を追って説明します。
大政奉還とは?内容をわかりやすく簡単に解説!
「大政奉還」とは、「大政(政権)」を、朝廷に「奉還(返)すること」を意味しています。
“返す”というのは「誰から誰に」でしょうか。
「幕府」とは、将軍を中心とする武家政権のことです。一方、「朝廷」は、天皇を中心とする政治機構を指します。
鎌倉幕府の成立以降、日本では武家政権が政治の中心を担う時代が長く続きました。江戸幕府も、朝廷から征夷大将軍に任命された徳川家が全国を統治する仕組みでした。
大政奉還は、徳川慶喜が幕府の持つ政治権力を朝廷へ返すと申し出た出来事です。ただし、この時点で幕府の組織や徳川家の領地・軍事力までただちに消滅したわけではありません。武家政権から新政府へ移る過程の大きな転機と捉えることが大切です。
大政奉還は1867年!年号の語呂合わせの覚え方を紹介
「大政奉還」がおこなわれたのは、1867年(慶応3年)です。江戸幕府15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、10月14日に朝廷へ大政奉還の上表を提出し、翌15日に朝廷がこれを受理しました。
年号は「いばるな(1867)徳川、大政奉還」などの語呂合わせで覚える方法があります。
語呂合わせは年号を覚えるための手がかりです。徳川慶喜が大政奉還を決断した理由や思惑については複数の見方があるため、史実と語呂合わせのイメージは分けて理解しましょう。
大政奉還の上表文の内容をわかりやすく要約
1867年(慶応3年)10月、京都でおこなわれた大政奉還で、徳川慶喜は「上表(じょうひょう)」を朝廷に提出しました。上表とは、天皇に渡す文書のことをいいます。
上表には具体的にどのようなことが書かれていたのでしょうか。ここでは、その要点を整理して解説します。
まず、朝廷と幕府の歴史を振り返っています。長い間、武家が政治の中心にいたことを述べています。
しかし現状は、自分のせいで政治がうまくいっていない、と報告しています。
近年増えてきた外国勢に対抗するためには「このままではいけない」「政権を朝廷に返し、権力を朝廷に集めて日本を守ろう」、そうすることで「諸外国と肩を並べられるようになるだろう」と続きます。
上記では、政権を朝廷へ返したうえで諸侯の意見を広く集め、国を挙げて外国と並び立つという方針を示して締めくくられています。
大政奉還は単なる辞任の表明ではなく、朝廷のもとで新たな政治体制をつくり、そのなかで徳川家の影響力を保つ意図もあったと考えられています。
なぜ大政奉還はおこなわれたのか?幕末の背景を解説
江戸時代末期、幕府は国内外の大きな変化への対応を迫られていました。1853年のペリー来航を機に、翌1854年の日米和親条約の締結などを経て開国が進むと、通商条約の締結や将軍継嗣問題などをめぐって朝廷・諸藩との対立が深まり、幕府の権威は低下していきます。
幕末の幕府は、開国後の外交問題や朝廷・諸藩との対立によって権威を弱めていました。そこへ薩摩藩・長州藩を中心とする倒幕の動きが強まり、土佐藩の後藤象二郎らは政権を朝廷へ返して新しい政治体制をつくる案を進めます。
慶喜には、倒幕の名目を弱めつつ、新体制でも徳川家の影響力を保つ狙いがあったと考えられています。
しかし、幕府の組織や徳川家の領地・軍事力は残っていたため、大政奉還だけで政治対立が解消したわけではありません。
二条城が舞台となった理由
大政奉還の舞台となったのは、京都の二条城です。幕末の徳川慶喜は京都を政治活動の拠点としており、朝廷や諸藩との交渉を進めていました。
朝廷と有力諸藩が集まる京都は、当時の政治交渉の中心でした。江戸城ではなく二条城が舞台となったのは、慶喜が京都に滞在し、そこで各勢力との調整を進めていたためです。
国立公文書館デジタルアーカイブ所収「大政奉還上表」によると、徳川慶喜は1867年(慶応3年)10月12日に幕府の重臣へ政権返上の意向を示し、10月14日に朝廷へ上表を提出し、15日に受理されています。
この前後の10月13日から14日ごろに、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下されたとされます。大政奉還は緊迫した政局のなかでおこなわれましたが、単に江戸へ戻る時間がなかったからではありません。京都が朝廷と諸藩を結ぶ政治の中心だったことが、二条城が舞台となった大きな理由です。
大政奉還と坂本龍馬の関係について
坂本龍馬(さかもとりょうま)は、土佐藩出身の人物で、幕末の政局に大きな影響を与えました。坂本龍馬は後藤象二郎と新しい政治構想について意見を交わしたとされ、この構想は「船中八策」と関連づけて語られることがあります。
後藤はその構想をもとに土佐藩前藩主の山内容堂へ大政奉還を進言し、山内容堂が徳川慶喜へ建白しました。つまり、龍馬が慶喜へ直接、大政奉還を提案したと断定するのは正確ではありません。龍馬の構想が後藤や土佐藩を介して大政奉還論に影響を与えた、と理解するとよいでしょう。
大政奉還後も、徳川家は広大な領地と軍事力を持っていました。そのため、諸藩の代表による会議が開かれれば、慶喜が新体制で大きな影響力を持つ可能性がありました。
しかし1867年12月9日、朝廷は「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」を発し、幕府と摂政・関白を廃止して新政府の役職を設けます。徳川家を新政府の中心から外す動きが進み、慶喜の辞官納地も求められました。
大政奉還は江戸幕府終焉への決定的な転機でしたが、政治体制の移行は王政復古、戊辰戦争、江戸城開城へと続いていきます。
大政奉還の後に何が起きたか
王政復古後、新政府が徳川慶喜に官位と領地の返上を求めたことで緊張が高まりました。1868年1月、旧幕府軍と新政府軍が京都近郊で衝突し、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まります。
旧幕府軍が敗れると、慶喜は大坂から江戸へ戻り、上野の寛永寺で謹慎して新政府への恭順を示しました。勝海舟と西郷隆盛の交渉を経て、1868年4月に江戸城は戦闘を避けて明け渡されます。ただし、旧幕府側の一部勢力は抵抗を続け、戊辰戦争は1869年まで続きました。
江戸城開城後、徳川慶喜は水戸を経て駿府(現在の静岡市)へ移り、1869年に謹慎を解かれました。その後は政治の表舞台から離れ、写真・狩猟・自転車・手芸など多くの趣味を楽しんだと伝えられています。
慶喜が将軍に就任したのは慶応2年12月5日(新暦1867年1月10日)で、王政復古の大号令により将軍職が廃止されたのは、1867年12月9日(新暦1868年1月3日)です。在職期間は約1年と、歴代将軍のなかでも短いものでした。
鳥羽・伏見の戦い後に慶喜が江戸へ退いたことへの評価は分かれます。一方で、その後に恭順を示したことや勝海舟らの交渉により、江戸での大規模な戦闘が避けられた点は、明治への移行を考えるうえで重要です。
徳川慶喜は1902年に「公爵(こうしゃく)」に叙され、貴族院議員となりました。1910年に議員を辞し、1913年に亡くなっています。
江戸幕府最後の将軍である慶喜は、幕末から明治・大正までを生き、政権返上後の長い期間を静岡や東京で過ごしました。
大政奉還のまとめ
今回は、「大政奉還」について解説しました。ポイントをまとめると…
大政奉還は、徳川慶喜が朝廷へ政権の返上を申し出た出来事です。1867年10月14日に上表が提出され、翌15日に朝廷が受理しました。
ただし、大政奉還だけで江戸幕府や武家政治が一日で消えたわけではありません。その後、王政復古の大号令、戊辰戦争、江戸城開城などを経て、新政府への移行が進みました。
大政奉還を理解するときは、徳川慶喜だけでなく、土佐藩の山内容堂・後藤象二郎、坂本龍馬、薩摩藩・長州藩など、それぞれの立場と構想を整理しておくと、幕末から明治への流れをつかみやすくなります。